pekeqの日記

過去に書いたブログエントリから反響のあったものを抜粋しています

Wiring Japan

NIFTY-ServeのFINET(だったかな?)から転載

『WIRED』February, 1994
Wiring Japan
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日本をネットワーキングの3流国にしてしまった、痛烈な文化的衝突を
起こした相容れない2潮流の始まりを、Bob Johnstoneが東京からレポ
ートする。
Bob JohnstoneはWiredの在日寄稿・編集者

 1993年9月17日金曜日。午後8時きっかりに日本で最初の商用インターネットパケット
が東京から送信され、太平洋横断ケーブルNo.4を通ってカリフォルニア州サンノゼに向
かった。日本のネットワーキングの新時代がいま始まったのである。新規ビジネスの誕
生にふさわしく、喝采や乾杯の声が湧き起こった。しかし、すべての人間がその夜東京
で歓喜していたわけではない。
 というのも、日本初のインターネットパケットは、米国法人であるInterCon Systems
とAT&Tの日本子会社に従事するアメリカの技術者によって送られたものだからである。
InterConの顧客第1号は、日本初の、一般アクセスが可能なインターネット供給会社・T
WICSで、同社は営利目的で小規模に運営され、400余名の加入者は日本在住の外国人で
ある。
 日本のインターネットの開拓者たちは、街のあちこちでフラストレーションに歯噛み
していたに違いない。商用インターネットサービスを供給すべく彼らが準備した会社は
、日本の郵政省の認可を取れなかったのである。外国人を通して、地元民に停止を命じ
るのは、日本で普通に行われているビジネスのやりかたではない。なにかおかしなこと
が行われているのだ。
 そのなにかというのは、つまるところ2つの文化の正面衝突である。すなわち、イン
ターネットの自由な民主主義のスタイルが、伝統的な日本のもっとも権威主義的な部分
と正面衝突したということなのである。
 一方は、技術開拓者や、有志の若者たちである。彼らは、政府からの援助など一切な
しで自力で日本最大のリサーチネットワークを築いた。彼らを率いていたのは、ある種
のアメリカ人(Carl MalamudやHoward Rheingoldのような)が“インターネットのサムラ
イ”と呼ぶ男、村井純である。
 もう一方は、日本の研究団体にネットワークサービスを供給する責任を負うている役
人たちである。彼らは一般的でない規格と技術をユーザーの喉に押し込もうとし、失敗
した。そのリーダーは、多少議論の余地はあるが、日本で最も権力のある技術官僚、猪
瀬博である。
 役人は、新規開拓者たちの早期の成功に憤慨し、優位な立場を再び手中にしようと姑
息なキャンペーンをはった。その傲慢な態度によって、開拓者たちは官僚ゲームの達人
である敵の術中に陥っていった。
 状況は、双方の非難のぶつけ合いと一方に対する侮辱というきわめて感情的な闘争に
発展した。小さなTWICSは戦火のただなかに巻き込まれ、11月半ば、長年にわたって続
いてきた東京大学とのE-MAIL接続が突然切断された。これは明らかに、TWICSが日本以
外のインターネットリンクの使用を決めたことへの報復である。その後、同社は東京大
学のコンピュータセンターの代理だと称する、ある男からの脅迫電話を受け取った。
 「日本で商売をするな!」男は怒鳴った。「すぐに店じまいしろ!」(おかげでTWICS
は再接続した)「あれはここ数年に起きたばかな騒ぎの中でも、いちばん油断のならな
いものだった」と、インターネットの有名人であるDavid Farberはコメントした。彼は
ペンシルバニア大学教授で、日本の状況を追いかけている。そこがまた混乱のタネでも
あるが、Farbarも指摘するとおり、日本人のやることが米国や他の国々に影響を及ぼす
のである。
 日本は世界第2位の経済大国かもしれないが、やっかいなことに日本人は孤立したま
まなのである。ネットワーキングには、日本を国際的なコミュニティに近づける力があ
る。だが、同様に、世界最大のネットワークへのログオンに失敗すれば、日本は以前よ
りもっと孤立してしまうことにもなりかねない。
 インターネットの巨大な増殖力は日本をはるか背後に置き去りにした。1993年6月の
時点で、米国には全部で100のネットワークがあるのに対し、日本にはおおざっぱに言
って5つのネットワークしかない。その月の、NSFNetのトラフィックを介した日本から
のデータ量は42,000メガバイトで、これは人口的には日本の6分の1しかない台湾のデー
タ量にだいたい等しく、太平洋沿岸で最も積極的なネットワークユーザーがいるオース
トラリアの半分以下である。
 日本の若者はインターネットを知っており、熱心にアクセスしたがっているのだ。皮
肉なのは、彼らがインターネットにログオンするのを奨励すべき立場の人たちが、逆に
それを妨げていることである。
 慶応大学の助教授である村井純と連絡をとる最良の方法は、驚いたことに、E-MAILで
はない。E-MAILの代わりに、村井の助手の1人に頼んで彼を追跡してもらうのである。
村井との最初の接触は−−自動車電話を通じてだったのだが−−勇気が湧いてくるよう
なものだった。「ビールをはさんで[のインタビュー]にしたいですか、それとも夕食か
なにか?」彼はたずねた。
 村井に会えば、彼がどうしてあちこちにいるインターネット仲間の間でそんなに人気
があるのかがすぐにわかるだろう。大学関係者の多くがいまだにスーツを着ているよう
な国で、村井は時代もののスポーツシャツを着、黒いジーンズの上ではビール腹が揺れ
ている。彼はちょっと熊のように見え、低く響く声が印象的である。日本では曖昧なや
りとりが美徳とみなされているが、村井は単刀直入に要点に触れた。
 10年前、村井が弱冠28歳のとき、日本のリサーチネットワーク団体はコミュニケーシ
ョンネットワークの導入に際して規制緩和の利点をどう活用すべきかという議論をして
いた。そこでの議論は、すでに提案されていた「オープンシステム・インターコネクシ
ョン(OpenSystems)」アーキテクチャーの採用問題に集中した。村井にとって、その様
な会合は時間の無駄だった。「僕は若かったから、あの会議は退屈だった」と彼は言う
。「僕はネットワークが欲しかったんです。実際に操作したり、開発したりするような
ね。だから僕たちはコンピュータとコミュニケーションにまつわる問題がなんなのかを
見つけることができたし、それを解決できた」
 そうして、彼とその友人数人は袖をまくり上げ、ケーブル引きを始めた。彼らの最初
の成果は無節操に名付けられた「JUNET」というネットワークで、公衆回線を利用して
提供される、電話回線を使用したモデムサービスであった。JUNETはE-MAILに枯渇して
いた日本の大学生の間にたちまちのうちに広まった。
 特筆すべきは、その後村井が学生たちのために漢字のテキスト入力を可能にしたこと
である。この成功に勇気づけられた村井は、1987年、野心に満ちたさらなるプロジェク
トに着手した。「Widely Interconnected Distributed Environment」あるいは「WIDE
」と呼ばれるものがそれである。基幹となるネットワークとして、WIDEは相互接続した
ローカルエリアネットワークのリース回線を基礎としている。
 リース回線は日本では非常に高価で、その代金を支払うために村井はソニーやキヤノ
ンといった企業に援助を求めた。村井のネットワークはここでも人気を博し、現在、WI
DEは30ヵ所の研究機関と40社に及ぶ企業に接続されている。WIDEはハワイ大学やNASAの
エイムズ研究センター(Ames Research Center)へのリンクももっており、日本の研究者
たちは、WIDEを通じて米国側とやり取りをすることができる。

 実際、WIDEは村井が回線接続要求を断わらなければならないほど大当たりした。次の
頭痛の種は、企業が調査のためのネットワーク利用を制限する必要がなくなったことだ
。日本政府によって厳重に規定された適正な利用法にのっとって要求された利用につい
ては、制限がないのである。この2つの問題に対するひとつの明らかな解決策は、商用
インターネットサービスを提供する会社を設立することである。
 1992年12月、村井とその教え子の何人かがインターネットイニシアティブ企画(Inte
rnet Initiative Japan(IIJ))を組織した。これが、郵政省が運用許可の承認を拒否し
た会社である。
 村井純の成功は、前東京大学教授浅野正一郎の悩みの種である。彼は、NACSIS(学術
情報センター:National Center for Science Information Systems)に在籍している。
同センターは、大学の研究者向けにネットワーク情報サービスを提供する目的で設立さ
れた、公的な機関であるため、文部省、科学技術庁、文化庁などの援助を受け、当然官
庁の認可を受けた技術、特にオープンシステム・インターコネクション・プロトコル(O
pen Systems Interconnection protocols)を採用している。OSIは1980年初頭に初めて
提案された。
 問題は、必要な能力に見合うだけのプロトコルを開発する責任のあるコミッティの当
初の予想に反し、開発に大幅に時間がかかってしまったことである。いざ完成してみる
と、たいていの人には使いにくく、不必要に複雑なものだった。

 米国ではそのころ、TCP/IPとして知られる一連のアドホックなプロトコルが野火のよ
うに広まっていた。主流派のエンジニアたちはこれらのプロトコルには鼻もかけず、若
いカウボーイたちのデザインによる、どんなに自分勝手なネットワークで使うにしても
、あまりにずさんなものだと鼻であしらっていた。
 彼らが言うとおりなのかもしれないが−−そしてプロトコルの供給の問題はいまだに
、地域的な分裂のような蛮行をもってエンジニアリング環境を隔てている−−1990年代
初頭までに、ほぼ全世界のネットワーキング分野でTCP/IPが事実上スタンダードとなっ
てしまったのである。TCP/IPは現在、インストールベースでOpen Systems Interconnec
tionの3〜5倍の規模がある。1991年に、NACSISは判断を誤っていたことを悟り、最終的
にTCP/IPをサポートしたネットワークへの移行を開始した。しかし、インターネットコ
ミュニティ(Internet Community)の見るところでは、WIDEはそのときすでに、日本にお
ける先駆者として認められていたのである。
 身分の低い助教授と彼の貧乏な卒業生が到達したそのような状態は、ボサボサ頭で狡
猾そうな外見をしている50代初めの浅野を憤慨させている。彼に村井の話しをすると、
途端に元気がよくなった。「村井純はあの[センターの]ために、5年間汚いことをして
きたんだ」彼は不平を漏らした。「汚いこと」の多くはインターネットイニシアチブ(I
IJ:InternetInitiative)に関連したものだ。例えば、浅野は村井を“影の指導者”だと
して非難する(日本の学者はビジネスに手を出すことなど想像もしていない)。
 彼はまた、IIJはアメリカからの圧力をさまざまな形で利用して、郵政省に運営認可
を発行させようとしたと攻撃する。これが単なる負け惜しみであればたいした問題では
ないのだが、残念なことに浅野はNACSISの所長である猪瀬博の後盾で、村井に相当な打
撃を与える力を得た(ついでに、日本のネットワーキングの拡大にも打撃を与えた)。
 年長者を尊ぶ日本の社会では、67歳の猪瀬はこの領域では最長老である。1957年ごろ
、若き電子技術者としてベル研究所の顧問をしていたとき、猪瀬は時分割多重方式に関
する基本特許を獲得した。同一回線上で発生した発信を分岐させる処理の要となる技術
で、現代のあらゆる電話交換システムに使用されているものである。この業績に匹敵す
る日本の学者は数人しかいない。猪瀬は後に、かの有名な東京大学工学部の学部長とな
り、大学退職後は現在の地位であるNACSISの所長に就任した。彼は合衆国科学アカデミ
ー(US National Academy of Sciences)の会員であり、IEEEの特別会員で、多くの賞を
獲得している。
 そのうちで最も値打ちのあるものは、政府による文化功労者としての認定である。日
本ではその褒賞はとてつもない名誉となるのである。今日、猪瀬は数々の重要な政策を
担う通産省と郵政省の双方の委員会に席をもっている。通産省と郵政省である。彼の教
え子たちは、日本の電子業界におけるリーディングカンパニーの中で高い地位について
いる。実際、日本で情報技術に携わる者はすべて、なんらかの形で猪瀬に恩義を受けて
いるといっても言い過ぎではない。
 この記事のために猪瀬にインタビューすることはできなかった。彼のスケジュールは
2ヵ月先まで埋まっているそうである。しかし、彼に会ったことのある人たちの多くは
その魅力と上品さに感心するのだそうだ。うっかりすると詩ぐらい書きそうではある。
 だが、外面の優しさの下にはしたたかな素顔が隠されている。職権濫用だとして猪瀬
を非難する日本人は多いが、思い切ってそれを公言する者は少ない。その小数の中の一
人に、科学技術ジャーナリストの古瀬幸広がいる。『新潮45』という月刊誌の'93年10
月号に古瀬はこう書いている“おそらく誰も[猪瀬を]批判しないだろう。なぜなら彼に
は絶対的な権力があり、誰よりも年長だからだ”古瀬はネットワーキングは日本の将来
にとって非常に重要なものだと認識している。しかも彼は猪瀬の黒幕的なやりかたは日
本のネットワーキングの発展にとって最良の方法ではないと懸念している。
 郵政省に圧力をかけてIIJの運営認可が下りないようにしたとして、古瀬ほか数名は
猪瀬に対して、ある告発を行った。ほかの告発は、彼が通産省を威して新規のコンピュ
ータリサーチプロジェクト(ネットワークサービスの供給をするためにIIJを使い、サポ
ートを受けるような)を禁止させたというものである。猪瀬はどうして村井やその他の
連中のような、若い成り上がり者を気にしなければならないのだろうか?
「猪瀬教授は旧弊な体制を代表しているのです」と通信関連のある上級官吏が示唆して
くれた「彼らが考えているのは、情報伝達、情報交換について政府と国立大学が常にそ
の中心でなければならないということなのです」
 米国では、AUP(アクセプタブル・ユース・ポリシー)(*1)が、インターネットサービ
スの商業的な発展を促進するために考えられた。日本のAUPは、これに比べて、インタ
ーネットの発展を象牙の塔の向こう側で妨げているようにみえる。
 猪瀬の長年の知己であるDavid Farberは、自分の友人(猪瀬)は純粋に国家の利益と教
育界の利益のために行動しているのだと主張する。Farberは、IIJが日本の大学の研究
者に対して、ネットワークサービスを適価で提供できると言ったことについて猪瀬が困
惑していると語った。
 NACSISへの過剰と言われている援助に加えて、IIJの発言で文部省がネットワーク全
体への資金援助を削減することになりかねないというのだ。IIJのスポークスマンは、
同社は学会割引プランの提案を予定していたが、郵政省から認可を受けた会社は顧客の
タイプの違いで分け隔てするのは許されない、というお達しを受けたと語った。IIJは
最近では特別な免許とは無関係な、国内向けネットワークサービスを供給している。
 「猪瀬は、上首尾な成果をあげ、文部省の支援を得つづけるためには、じっくりと慎
重にことを進めなければならないと信じている」とFarberは言う。IIJで村井純と彼の
仲間がやった、「カウボーイ流のアプローチに猪瀬は困惑したのだ」。
 IIJの態度に困惑したのは猪瀬ばかりではなかった。この間の争いに関する批判のう
ちのいくつかは、IIJの経営体制に対するものに違いない。特に、同社の社長兼CEO(経
営最高責任者)である、深瀬弘恭に対しての。
 深瀬は訓練されたエンジニアではあっても、ビジネスマンではない。当然の成り行き
として、彼は不必要な敵対関係を潜在的な投資者との間につくってしまい、しかも日本
のビジネス儀礼として必要な“裏を返す”ことを省略したのである。もっと悪いことに
、彼は郵政省のコンピュータ通信課長であり、IIJが国際インターネットサービスを供
給するために必要な認可を発行する職務にある蝶野光を怒らせてしまった。

 日本では、官僚には敬意をもって接したほうが得だ。彼らはいずれにしても、エリー
トたちで構成され、自らをお国のためにささげ、しかも過密な環境で薄給で働いている
のである。その報酬は権力である。日本の政府機関を訪れると、役人の恩恵を乞いにや
ってくる嘆願者の流れが絶えないことがわかる。
 蝶野は官僚的人種を示す最好例である。東京大学の法学部を卒業後、彼はジュネーブ
にあるCCITT(国際電信電話諮問委員会)の日本代表としての任務や、北の遠隔地で1年間
郵便局長を勤めるなどの経験を積んだ。1975年以来、電信電話の仕事に携わっているが
、この仕事に疲れている。特に、深瀬にはうんざりしている。
「IIJという会社は、難しすぎて私にはとても理解できない」蝶野は嘆息する。「彼ら
は膨大な販促活動と市場調査を行い、新聞雑誌に料金表を掲載したが、形式的な手続き
を完了することができなかった」
 蝶野が求めていたのは、財務保証人の裏書きである。「彼らが必要な書類をすべてそ
ろえていたら、」彼は言う。郵政省は「最大でも15日以内に」認可を発行しただろう。
深瀬は保証人(日本興業銀行)を見つけたと主張し、あの銀行は保証書を交付しないと警
告した蝶野を非難した。こうした非難のしかたは、計画をぶち壊しにする深瀬特有の無
神経さである。
 1993年初頭、彼は全米科学財団(US National Science Foundation)にいる友人に、東
京のアメリカ大使館を通じてIIJの認可申請を援助する手紙を出してもらう手配をして
、郵政省を慌てさせた。浅野は、IIJが米国の機器製作会社を説き伏せて、郵政省がIIJ
に日本でビジネスをさせないようにしていると批判させたことを非難している。こうし
た、米国の圧力を利用して無理やり郵政省に認可を出させるような強引な試みは、かえ
って逆効果となった。この時点で深瀬が講じることのできた最良の手は、蝶野に会いに
行って彼のお怒りを鎮めることであっただろう。
 だが深瀬が何ヵ月も蝶野のオフィスを訪れなかったのにひきかえ、浅野は定期的に蝶
野を訪ねていたそうである。「彼らは稚拙な男たちだ」IIJのあるオブザーバーはコメ
ントする。
「自国でゲームをする方法を知らなかった」村井は争いごとにけりをつけて、自分の研
究を続けたいと思った。「私はそういうことには一切関わりたくないんです」彼は不満
げにうめいた。「私のどこがいけないというんでしょう? [NACSIS]より良い環境を
提供して、研究者を育て、よい結果を出し、[WIDEをサポートしてくれる]企業には大
いに喜んでもらっていますよ。問題は、こういうことに首を突っ込むにしては、私があ
まりに若すぎるということです」と村井はしめくくる。
 しかし、これは村井の性分によるものだろうが、彼はIIJを取り巻く馬鹿げた争いか
らなにもせずに立ち去ることができなかった。実際、Farberが指摘するとおり、最近の
難題の多くは、学術的な研究ネットワークの指導者と商業的なインターネットのゴッド
ファーザーという村井の混乱した1人2役に由来しているのである。
 彼の友人であり、テクニカル旅行日誌「インターネット見てある記(Exploring the I
nternet)」の著者でもあるカール・マラマッドはこうコメントした。「日本における係
争の実態は米国と同じだ。私たちは、インターネットは何か学術的な研究プロジェクト
だという迷信を超えたところで動いている」
 では問題を解決するにはなにをすればよいのだろうか? 日本にはそれがわかる人間
はいないようである。最良とはいえないが、解決策がひとつある。それは、ただ時の流
れにまかすことだ。猪瀬は2年以内に定年退職するだろう。師匠の門出にともない、浅
野は自分は恐らく学問的な生活に戻るだろうと語った。
 さてその前に、IIJは研究に専念する村井を残し、新しい経営体制で業務をはじめる
ことになりそうだ。とにかく、とりあえずは新しい時代が始まったのだが、失った貴重
な時間は戻ってこない。しかも、日本は時間を無駄にできる場合ではないのである。