pekeqの日記

過去に書いたブログエントリから反響のあったものを抜粋しています

termination of dec-j.co.jp

            <<< JRDV04::$2$DKB200:[NOTES$LIBRARY]INTERNET.NOTE;1 >>>
               -< Internet/USENET in Japan  _Internal Use Only_ >-
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ノート 928.4               termination of dec-j.co.jp                      4 / 5
TKOV51::SEKI "Japan/Tokyo/SE ::tkov51::seki"            136 行 30-NOV-1999 19:53
                             -< Farewell Message >-
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1999年11月30日

ついに、去年から予定されていた"dec-j.co.jp"の最後の日がきました。

今まで、日本のインターネット界でも、いろんな意味で象徴だったこの名前に対する
Farewell Messageを捧げようと思います。
それにしても、何故、"dec-j"はハイフンなんかを使ったブサイクな名前なんだろう、
と思っていた人は多いのではないでしょうか?。例えば、IBMは"www.ibm.co.jp"だし、
SUNだって"www.sun.co.jp"だ。
HPは"www.jpn.hp.com"だし、Microsoftは"www.microsoft.com/japan/"。なにか、dec-j
だけは、世の中の流れから外れているような気がしますよね。まぁ。会社自体がそうだ
ったのかもしれないけど。

というわけで、昔に戻って、理由を明らかにしましょう。そうすれば、改めて、我々が
Internet Company であった事を確認することになります。

さて、これを読んでいる方がご存知かどうか分かりませんが、まだ、TCP/IPというと、
DEC SYSTEM-10/20 でインプリメントされていたころ、つまり、まだ、BSD UNIXで
TCP/IPが動いていなかった頃にまで溯ることになります。この頃のBSDは、バージョン
4.0かそれ以前でした。

全米の主要コンピュータサイエンス系大学が、国防総省のプロジェクトで、ARPANETを
展開していた頃のことです。当然のことながら、多くの大学や研究機関は、DEC PDP上
で稼動するBBNの開発したパケット交換ソフトと、DEC SYSTEM-10/20で動作するTELNET
(大文字!)やFTPを使用していました。
当時、ARPANETに繋がっていなかった米国の大学のうち、IBM系のコンピュータを使用し
ていた機関は、BITNETという名前で、独自のネットワークを運用していました。日本で
は、東京理科大学に回線を伸ばしていたのは有名な話です。

それでは、BSD のネットワーク機能は何だったのでしょう?それは、電話線で構築する
UUCP(UnixUnixCoPy)と、これをベースに学生達が非組織で繋いだUSENETだったのです。
当然、これならば、安価に(といっても、ハードウェアはVAXかPDPしかありませんでし
たが)ネットワークを構成できます。

ところで、慶応大学の村井純さんをご存知でしょうか?現在ISOCの理事もやっており、
日本のインタ−ネットの顔と呼ばれている方です。彼は、今から15年前、つまり1984年
になりますが、東京工業大学の計算機センターにいました。そこで、東工大のVAXと米国
のUSENETとの接続をもくろんだのです。しかも、バークレイのビル・ジョイ達がBSD4.1
にインプリメンテーションをはじめていたTCP/IPは、国防総省から得た予算で行ってお
り、このため、米国外持ち出し禁止だったのです。

当時、ビル・ジョイ達のSUN-1は登場したばかりで、日本には、ほとんど導入されてい
ませんでした。そこで、日本のVAX UNIX ユーザーを電話線で繋ぐ計画が村井さんを中心
に立ち上がりました。
メンバーには、東工大を筆頭に、東大、上智大学、SONY、富士通研、ASCIIといった、
VAXが購入できる、比較的裕福な、組織が集まりました。そして、日本DECも当然加わっ
たのです。当時、日本の大学は、政策的に日本製のメインフレームを購入せざるを得な
かったため、なお更、数は少なくなります。信州大学にいたっては、PC98のUNIXでした
(私の知る限り唯一の非VAXユーザでした)。

当時、日本の電話は、まだ、電電公社であり、電話債権により購入していたものでした。
従って、電話線に直接繋ぐモデムというものは認可が下りておらず、すべて、音響カプ
ラで接続したのです。このため、VAXの横に、音響カプラを置き、手動で電話をかけなが
ら、ネットワークを張るという極めて原始的な方法で繋いでいました。しかも、日本製
音響カプラは300bpsであったため、米国のレーカルバディック製の2400bpsが可能な高価
なカプラで繋いだ、東工大、ASCII、日本DECは、「バックボーン」と呼ばれていました。

さて、UUCPでは、ご存知のように、ポイントツーポイント接続です。つまり、ルーティ
ング機能を持っていません。単に、ファイルをコピーするだけの単純なネットワーク
ソフトウェアです。しかもこのソフトウェアの上で、電子メールを稼動させなければな
りません。しかし、それぞれのコンピュータを識別する名前を、ネットワーク全体で管
理することはできません。もちろん、現在のjpのような国コードもなく、仕方なく、
「とりあえず世界中でコンフリクトしないような名前を想定」して名前を付けることに
なります。これにより、メールを送る時には、"hosta!hostb!hostc"というように、
ルーティングを利用者が指定することになります。

このようなネットワークで、日本DECはどのような名前を付けたらよいのでしょうか?
現在のIBMやSUNのドメイン名のように、国コードがあれば、"ibm"や"sun"だけでもいい
ですよね。ネットワークがハイアラーキ構成であれば、HPのように、"jpn.hp.com"でも
いいですよね。しかし、UUCPは、ARPAnetやDECnetPhaseIVと同様「フラット
アドレッシング」です。そこで、「日本DEC」であることがすぐに分かり、しかも
アルファベティカルにソーティングすると、decと並ぶように、と考えられたのが、
"dec-j"なのです。

たしか、1984年の秋のある土曜日だったと思います。いつもなら、東工大の計算機セン
ターの会議室で開くミーティングが、その日に限って、部屋が空いておらず、どこだっ
たかの大教室に、数人集まりました。その日は「名前を決める」日だったのです。それ
ぞれの組織のホストネームを決めていました。「日本DECはどうしましょう」との話題
の時、「decjとか、jdec、あるいは、dec-jとか、どれにしましょうかねぁ?」という
話をしました。が、村井さんが「dec-jでいいよ。分かりやすいから」とひとこと。
これで決まってしまいました。その後、「このネットワーク全体の名前、何にしましょ
う?」という議題で「JUNETにしよう。JapanUnixNet、とかJapanUniversityNetにも
なるし、それに村井JUN、だし」という経緯でJUNETという名前が付けられました。同時
に、これが、郵政省からは、VANとして見られており、規制がかかる可能性がある、との
事から、東大の石田晴久教授(その後DECUSの会長もされましたが)を理事にして、学術
目的を前面にだし、郵政省を牽制することも決められました。また、ニュースグループ
を"fj(fromJapan)"に決めました。これは、当時、のニュースリーダーが、日本より、
米国に留学していた日本人学生のほうが多かった事に由来しています。

まぁ昔々の話です。その頃、ARPANETは、国防総省の内部ネットとARPANETの分離が行わ
れ、また、TCP/IP付きの、BSD4.1がやっと日本に導入できるようになり、Ethernetの
普及と共に、ホストはVAX、WSはSUNというLANが拡がりました。ARPANETもARPA-Internet
と名前が変えられ、日本でも、JUNETの中に、INETclubというSLIP接続のコアネット
バックボーンを構成しました。さらに、DNS/BINDが、米国より一足早く、日本で導入が
始まりました。

余談ですが、DNS/BINDでは、旧DECの、Paul Vixieが重要なエンジニアであった(今も
そうですが)ことも記述しておきます。80年代初頭に、XEROXで分散処理の研究が行われ
た時に、VINEという分散資源管理のプロジェクトがありましたが、このグループがその
後2つに分かれ、DECに来たグループが、DECdns/X500を開発し、他方が、SUNでYPを開発
しました。同時に、これに刺激を受けて、UNIX用のBINDが、DECWRL
(WesternResearchLab)やバークレイーで開発されたのです。

旧DECが、InternetのFireWallを開発したのは、1988年に溯ります。このころ、旧DECが
会社全体でセキュリティポリシーを策定していたため、dec-j自身が、旧DECのEasynet
から分離された事もあります。しかし、その後、日本DECにFireWallを構築し、Easynet
とInternetがセキュリティが守られた環境で自由に情報交換ができたましたが、これも、
日本のネットワークの中では、まさに黎明期でした。この業界で、「イントラネット」
という言葉も「ファイアウォール」同様、DECが最初に使った言葉だったというのは
ご存知でしょうか?

また、WWWでは、日本で最初のクリッカブルマップはNTTだと言われています。しかし、
そのNTTの研究者が、「DEC内部でしか公開されていない、日本で最初のクリッカブル
マップの荻窪マップが見てみたい」と言ってました。

というわけで、dec-j というのは、uucp、slip、ppp、httpといった、UNIXで開発され
てきた通信プロトコルのすべてを経験してきた、結構由緒ある名前だったりします。
しかし、結局、21世紀を迎える事はできなかった名前となりました。

この15年の"dec-j"は、この会社の技術を支えているエンジニアの技術力のいくつもあ
る象徴のひとつでもあったと思っています。

最近はInternetベースの企業を".com"といいます。ドメインに".com"を使ったのは、
DECが世界で最初でした。(余談です。現在SUNが、「SUNは".com"企業」として広告を
行っていますが、彼らは、DECが消えるのを待ってから広告をスタートさせました。
DECが「".com"のオリジナル」というのを避けたかったとのうわさです。
あくまでうわさ。)つまり、ドメイン名は、Internet企業としての象徴として捉えられ
ていますし、そのように企業は宣伝もしています。

シンボルとしての"compaq.co.jp"が"dec-j"から何を引継ぎ、何を捨てるのか、熟考す
ることは、「インターネットがすべて」と言われている現在の業界と市場の中で、
我々の場所がどこにあるのかを考えることにもなるでしょう。

文責:碩 耕一
(この文書の配布ルールはGPLに準拠することにしました。一切変更しなければ配布自
由です。)

この文章について:残念ながら私はDEC関係者ではないので、この文書の出自などについて正確なところはわかりません。